雨は降ってなかったと思うけど~LIFE ISに触れて③~
!注意!
※このブログはあの日の天気は晴れていたかしら?くらいの曖昧な記憶でお送りしています。妄想過多、個人の感想です。ご注意ください。
※私のブログは長い。まだ写真集に触れられていないです。
※脱退や怪我やリアルな死について私の体験という偏った見方で触れています。
※深く受け止めすぎず、気軽な気持ちで読んでください。
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①で話したように、変わらざるを得ない状況になったとしても、安田さんは人の倖せが自分の倖せと言うのだろうか?と彼の信念を追いかけたいと思ってファンに出戻った。
そして②で私はずっと安田さんが安田章大さんをどう表現するのかが見たかったからファンを続けていたことを思い出した。
そんな風に、私はずっと安田さんに何かを勝手に求めていた。
だからLIFE ISの発売を知った日、安田さんの表現したいものはこれだったんだなとなんだか感慨深い気持ちすらしていた。
安田さんが考えて、岡田さんと出会って、想いを伝えて、書いてくださった企画書を事務所や出版社に自ら持ち込んだ。
岡田さんという同士とともに、撮影場所や本の帯の言葉やタイトル、装丁の隅々まで安田さんの伝えたいことを余すことなく伝わるように作り上げられた写真集。
撮影にはマネージャーや出版社の方すら同行しなかったという。
これは私の勝手な思い込みだけれど、これまでの安田さんは例えば誰かが前に出れば、無意識に一歩下がるような印象を受けていた。
まだ大山田の知名度が低かった頃、ライブで大山田のセッションがあって、私としてはある意味安田さん達の見せ場なのかなと思っていた。
ある日、「亮もいるよ!」と錦戸さんをセッションに引き入れた時、安田さんは誰かを1人にしない人なんだと思った一方で、競争だらけのこの世界でこんなに優しくて安田さんは生きていけるのだろうかとも思った。
楽曲も、自身の感じた気持ちやその場の雰囲気が歌として降りてくる人でありながら、関ジャニ∞として強くなるために必要な曲を、と考えて作り上げる。
なんとなく、安田さんは個として飛び抜けるのでなく、グループとして強くなりたいと思っているように感じていた。
そして求められている役割に全力で心血を注ぐ。
そんな安田さんが、もしかしたら初めて、安田さんが安田さんとしてやりたいこととして、その表現を形にしたもの。
改めて、とても大切なものを受け取らせていただける。
そう思えば思うほど、たとえ世間や周りがどう言おうと、私個人として安田さんの気持ちを大事にしたいと思った。
そして、安田さんがそうまでして作り上げた写真集が、届けたい誰かに届けば良いと思った。
そう、安田さんの思いを大切にしたいと言いながら、私はずっとどこか他人事だった。
安田さんがその経験から得たものを届ける先は、私ではないと思っていた。
私は幸いなことに今現在、苦しい想いをしていない。
生きることに死ぬほど悩んだこともない。
一度緊急入院と手術を経験してお腹に手術跡が残ったものの、特に後遺症もなく、時々風邪を引くくらいで健康な身体で何の不自由もなく生活できている。
2020年8月18日、関ジャニ∞さんの新曲『Re:LIVE』フラゲ日に更新されたボク。を読んだ後で。
唐突に私は父のことを思い出した。
~ここから死についての表現があります。苦手な方は斜体部分を飛ばしてください~
それは父の死の瞬間のことだった。
危篤と言われ、病院に向かった。親戚も集まって、1日中父の呼吸の音を聞いていた。
父は苦しそうだった。
目をカッと開いて、胸は大きくぜーぜーという呼吸を繰り返していた。
意識はずっとあったと思う。
ぜんぜん安らかではない最期だった。
その目が閉じられる時、私と母と姉は父の手を握っていた。
父は、生きたかったのだろうか?
昔から、ちょっと怪我して血が出たらすぐに病院に行きたがるような、痛みに弱い人だった。
旅行先で枕が変わると寝られなくなるような繊細な人で、胃腸も弱くてよくお腹を壊していた。
母がインフルになったら、1日後には自分も熱がある気がするって寝込んでた。(実際の体温計は36℃代だったけど)
あまり精神が強い人ではないから、余命宣告は本人には告げない方が良いのではないかと主治医の方にも言われるような人だった。
そんな父は、入院中、私にはあまり弱音を吐かなかった。
夜遅くまで面会が許されていたから、毎日できる限り仕事帰りに病室に寄った。
さみしがり屋な人だったから、母が1日2回、夜には私が顔を出すのが嬉しかったと母から聞いた。
1度だけ誕生日にお手紙を書いて病室にお見舞いに行った時だけ、泣き顔を見たけれど、最後には「頑張るね」と言っていた。
でも母に言わせると、苦しいとかつらいとか、もう長くないとかずっとそんなことをばかり言うと言っていた。
父は本当に頑張りたかったのかな。
がん細胞が身体を蝕んでいって。
徐々に徐々に歩けなくなって、起き上がれなくなって、笑わなくなって、喋らなくなって。
歯を食いしばって薬を拒否したり、一時帰宅後に病院へ戻る時はベッドに捕まって抵抗していたこともあった。
私は父ではないから、その苦しみはわからない。わかってあげられなかった。
でも最後まで、お父さんは意識があった。
苦しいことや痛いことが苦手な父は、最後まで目を開いていた。
最後まで、頑張っていた。
でも、本当は頑張りたかったのかな。
わたしたちかぞくが、おとうさんに苦しい思いをさせてしまっていたんじゃないかな。
わからない。
わからない。
~ここまで~
あの日、ボク。で安田さんは「今何かで辛くキツい人がいたら、症状は違えどそっと寄り添いたい。」「”独り”じゃない事を実感し、重い一歩を踏み出すきっかけになるかもしれない。」と思ったと言っていた。
誰かの背中を少しでも押すことのできる本になれば良いと思って出すことを決めたと。
そして「こういう本を求めている人も周りにはいるかもしれないから」、「周りに伝えてくれると嬉しい」と。
たとえば、闘病中や後遺症と闘っている方や生きることに疲れている方とか。そんな方へこの本の存在が伝わるように、と。
ボク。を読んだ直後は、私はずっとこの真摯な安田さんの想いが、誰かへ届くといいと思っていた。
安田さんが悩んでいたという20代前半に、今回撮影をしてくださったカメラマン岡田敦さんの写真集『I am』に触れて感銘を受けたように。
正直に言えば、私はテーマがテーマなだけに思うところがあって『I am』にきちんと触れられていなかった。
でも4月の関ジャニクロニクルFで安田さんが読み上げた岡田さんの言葉*1を聞いて、それは私の浅い考えと思い込みからきた偏見で臭いものに蓋をしていただけなのかもしれないと気付けた。
安田さんが読んだ言葉は、『I am』の後書きの一節だった。
人生のふとした瞬間に”死の気配”を感じることがある。だがそんな時ほど自分の生と真剣に向き合うことはない。それは、傷を負うことによって自分の存在(Identity)を確かめようとする行為と、どこか似ているのかもしれない。(『I am』岡田敦)
その後に、岡田さんはこう続けている。
~中略~
人は自分の理解を超えたものや、決して認めまいとするものに対し、言葉による枠組みをつくり、分類することによって自らの平穏を保とうとするが、私は彼女たちと自分たちとの間、あるいは彼女たちどうしの間に、大きな違いを見つけることができなかった。
私は生きている。彼女たちもまた生きている。そこに、人間が生きているということの根源的な差異はない。
~後略~
(『I am』岡田敦)
予約していた『Re:LIVE』を受け取って家まで帰る道すがら、 不意にあの日の関ジャニクロニクルFでの岡田さんの言葉とともに父のことが一気に駆け巡ってきた。
私は「闘病中」でも「後遺症がある」わけでも「生きることに疲れている」わけでもまったくない。
まったくないけど、このボク。を読んで、父親のことを思い出した。
父のことを思い出して、徐々に徐々に涙がこみ上げてきて。
気が付いたら、特典映像のUPDATEの愛媛公演*2のCHUU*3を見ながら号泣していた。
なんでここで?って自分でも分からないけれど、涙が溢れて止まらなくなった。
私は安田さんが手を伸ばしたいと思っている対象ではないのだけど。
あの日、病室で父の死を見届けた私の心に、安田さんがそっと何かを渡してくれた気がした。
ようやく向き合えた、そう思えた。
安田さんのボク。や教えてくれた岡田さんの言葉や、これまでの安田さんの言葉や、写真集を発売するというニュースを見たときや。
きっと少しずつ少しずつ、自分では気付かない内に降り積もっていたこれまでのいろんな思いが決壊して止まらなくなったのだ。
逃げてた自覚もなかったけど、父の死から、父の命から、私は目を逸らして自分の生活のことだけを優先していたのかもしれない。
父が生きたかったこと、最後まで生き抜いたこと、いつの間にかそれを忘れていた自分がいた。
父や死や生なんて、そんなわからないことを考えても仕方ないと、ずっと目を逸らしていた。
そうだ、私はずっと父の生から目を逸らし続けていたんだ。
後悔でも悲しみでもなんでもない感情が胸を押し上げるままにボロボロと泣いた。
そして安田さんの見つめる先を知りたいとこれまで以上に強く思った。
それは父をもう一度思い出すことでもあった。
続きます。
次がたぶん最後です。